平安時代の貴族の女性が一体どんな生活をしていたのか気になる人もいますよね。毎日どんな風に1日を過ごして、どんな恋愛や結婚をして過ごしていたのでしょうか。
平安時代の貴族女性はどんな物を着ていたの?物事を占いで決めていたって本当?
そこで今回は、平安時代の貴族女性の生活の様子と庶民の生活についてお伝えします!
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平安時代の女性はどんな生活をしていたの?
平安時代の貴族の女性は、まさに箱入り娘のお嬢様でした。今みたいに行きたい場所に自由に行くことも許されませんでした。外出する場合もお供がつきますので、現代人からすると自由の少ない窮屈な生活だったようです。
自由に出歩くことも出来ず、家の中で過ごしていましたし、身の回りの事は自分でする必要もないので、とにかく暇を持て余していました。平安時代と言えば、恋愛を謳った和歌が多いように、貴族の女性たちにとって恋愛や恋が楽しみだったのではないでしょうか。
とはいえ、平安時代は日本も一夫多妻制でした。そのため、女の嫉妬が渦巻いていた事でしょう。日本の一夫多妻制度と聞くと、正室も側室も同じ屋根の下で暮らしているイメージですが、平安時代は正妻だけが夫と同じ屋根の下に住み、他の夫人は別の家で暮らして夫が通ってくる結婚生活でした。また、平安時代は星占いをとても大切にしていたため、夫人の家に通う日も星占いで決めていたそうです。自由に会えない時間が長いからこそ、恋を謳った和歌が多いのでしょう。
平安時代の生活・男性の服装と女性の服装
平安時代の女性の服装をイメージすると十二単(じゅうにひとえ)を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。この十二単は平安時代に生まれたとされています。それまで入って来ていた中国からの文化がなくなった後に日本独自の文化が発展していきました。この十二単は重ね着をしていて見るからに重く身動きも取りづらそうですが、平和な平安時代だったからこそ生まれた服装と言えるでしょう。
ちなみに、十二単はその言葉から12枚重ね着をしていると思っている人も多いですが、12枚以下の場合もあれば12枚以上の場合もあります。たくさん重ねていることを十二単というのです。
貴族の男性の服装ですが、一口に貴族と言っても貴族の中でも身分階級がありました。そのため、その身分によって身に着ける服装が違い、細かい決まりがありました。後ろを歩く人は踏まないのかな?と思ってしまうような上の着物の裾の長さも身分によって違い、位が高い方が長さが長くなったそうです。
平安時代は一夫多妻!女性の結婚生活は?
最初にご紹介した通り、平安時代は一夫多妻制でした。また、女性は男性の様には自由に外出することも出来ない時代です。
どのように出会い、結婚に至るのかというと、正妻となる女性は家柄や知性が重視されていました。そのため、正妻は位の高い権力のある家の中から選ばれます。一方、正妻以外の夫人は、いわゆる妾という存在ですが、家柄よりも容姿の美しさが重視される傾向にありました。
なお、正妻へも妾へも気に入った女性に男性が手紙を書くところから始まります。ちなみに、男性の一目惚れ等で手紙を出すのではなく、多くは美しい女性などの噂を聞いただけで手紙を出していたようです。
女性が男性からの手紙の内容や男性の地位が良いと思えば、返事を書きます。貴族の女性は親も手紙の内容や男性の地位をチェックし、親が認めた男性に返事を出していました。
女性から返事が来たら、男性が女性の家に会いに行きますが、すだれ越しに話をするのでまだ相手の顔を見ることは出来ません。それを数回重ねた後、いきなり男性が女性の寝床に忍び込むのです。この時に初めて相手を見ることになるのですから、今では考えられない風習ですよね。なお、3日続けて男性が女性の寝床に通って結婚となります。
妾となる女性は、こんな風に結婚した後も夫が来てくれる日は占いで決められ、結婚しても自由に会うことは出来ませんでした。
平安時代はどんな女性が美しいとされていたの?
平安時代の女性と現代の女性では美しいとされる女性の基準が異なっていました。昔の絵やひな人形をみても分かる通り、平安時代の美しい女性の条件は色白でふくよか、黒く長い髪、切れ長の目におちょぼ口、小さく筋の通った鼻だったようです。
しかし、貴族の女性はあまりで歩くこともありませんし、家族など親しい人の前では扇で顔を隠すなどの風習があり、「あの家の娘が美人らしい」と聞いても本当にそうなのか判断するのは難しかったでしょう。
また、平安時代の女性のメイクと言えば、おしろいを塗った白い肌に引眉、いわるゆ麿眉、そしてお歯黒です。なんとも特徴的なメイクですが、これは前述でご紹介した結婚のプロセスが関係していると考えられます。初めて顔を見るときに薄暗いなかで会うので、このようなメイクになったのではないかという説があります。
なお、平安時代の絵画や資料などから平安美人の条件が言われていますが、平安時代の絵画の女性の顔はその当時の絵の手法であり、いわゆるおかめ顔が実際に美人とされていたのではない説を唱えているひともいます。
平安時代の庶民の生活について
平安時代の貴族は寝殿造りという大きく立派な建物に住んでいました。有名なものだと京都御所などが寝殿造りの建物です。しかし、庶民は当然ながら寝殿造りなんていう立派な建物に住むことは出来ません。庶民が住んでいたのは、小屋や竪穴式住居でした。竪穴式住居というと、平安時代よりももっと昔のイメージですが、地方に住む庶民の家は竪穴式住居が主流だったようです。
平安時代の食事は、貴族は比較的裕福なイメージですがまだ白米は主流ではありませんでした。貴族でさえも白米は貴重な物だったので、お米が庶民にまでいきわたる量はありません。そのため、庶民はお米ではなくひえやあわを主食とし、その量も限られているためおかゆのようにして食べていたとされています。満足出来るほどの食料が無かったため、栄養失調も短命のひとつの理由と考えられています。